上国家の成立について、従来の説は鹿季が出羽湊に入ったとの系図記載記事を踏襲したものであったが、近年、南北朝時代成立の史料により男鹿半島の領主として確認される安藤孫五郎、安東太の両者や、「市川湊文書」に含まれている寺社修造棟札写に残る寂蔵、安倍忠季、安倍浄宗等が鹿季の南遷と伝えられている時代以前に遡れること、湊家以前の男鹿半島の領主を女川家と伝える伝承があること等から、湊家の成立と伝えられる以前に安東一族が秋田郡に土着していた可能性を指摘する見解[20][21]や、鎌倉末期に蝦夷大乱において惣領から退けられた季長を上国家の祖と見なす見解[11]などが出されている。また、鹿季を宗季の子とする系図を支持する見解もある[14]。
上国家は、一般的に湊家と称し、遅くとも天文年間には京都扶持衆となっていること、代々「左衛門佐」を名乗り本願寺や細川氏とも誼を通じるなど中央との交流があったこと等が史料から確認されているものの[14][22]、事績を伝える確実な史料に乏しく研究が進んでいない。その系譜についても、伝承されている系図が、南部氏の史料とは概ね一致するものの、前述の寺社修造棟札写から復元される歴代とは異なっており、女川家も含めてその実態については今後の研究が待たれている。
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戦国時代後期に入ると上国家湊安東氏に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため、詳細は不明であるが檜山下国家の安東愛季が湊家をも継承して安東家を統合した[20]。愛季は織田信長とも誼を通じる一方、浅利勝頼ら領内の反抗勢力を滅ぼし、由利地方から大宝寺氏の干渉を駆逐した。安東氏は戦国末期になってようやく、秋田郡・檜山郡・河辺郡・由利郡を領有する戦国大名へと脱皮を遂げたのである。更に天正17年(1589年)、居城を檜山から湊へ移し秋田城介を名乗った。
安東氏は愛季の晩年に秋田氏と改姓し、実季の代には湊合戦を鎮圧。豊臣秀吉時代を出羽秋田52,404石の大名(更に太閤蔵入地26,245石の代官)として生き延び、伏見築城や朝鮮出兵の際の杉板供給役を務めた
関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602年)、常陸国宍戸(現茨城県笠間市)50,000石に国替となり、さらに正保2年(1645年)には陸奥国三春(現福島県三春町)55,000石に移り、まもなく5000石を分家に分与して50,000石の三春藩主として江戸時代を通じ大名として存続し、明治維新に及び華族に列し、子爵を授けられた。